9年越しのサッカー監督業 / [東京大学運動会ア式蹴球部2024]




2024.12

9年越しのサッカー監督業

高校生の頃に、ウナイ・エメリのサッカーを見て、監督って面白そうだと思った。

 

始まりは、中学生の頃にセビージャを好きになったこと。

父はバルセロナが好きで、セビージャvsバルセロナの試合をたまたまテレビで見ていた。

その試合はバルセロナが勝った。

だがテレビ越しにも伝わってきたセビージャのスタジアム、サポーター、選手の熱気と情熱に惹かれて、
私は毎週セビージャの試合を追い続けるようになっていた。

 

そして、セビージャの監督にウナイ・エメリが就任した。

私のサッカーを見方が変わった。

 

とにかく守備が美しかった。

今まで日本で教わっていた守備の説明では説明しきれないほどの守備組織が、とても緻密にチーム全体で連動していたのが凡人にもよく分かった。

相手に合わせてシステムや選手を変え、毎週まるで別のチームかのように試合に臨み相手の特徴を消しながらチームを操るまさに策士。

そしてELで3連覇を達成した。

 

多種多様な戦術を使い分ける采配力と、ピッチ脇で戦況を見つめながらも身振り手振り指示を出し指揮するスペイン人らしく情熱的な彼に憧れて、

高校生だった私は監督になるという夢を持ちスペインのセビージャへ行った。

 

セビージャには2年いた。
ジュニアユース年代のコーチ、第二監督をしながら監督ライセンスを取得した。

監督への憧れはあったが、監督業を本格的に学び始めた当時18歳の自分には到底務まらないと落胆し、自然と監督からアナリストへ夢は移っていた。確かにそれが適職でもあった。

帰国してからは、ジュビロ磐田での通訳、アナリスト。
そしてパラグアイのチームでのアナリスト。
再度帰国して社会人チームでヘッドコーチとして働き、

 

2024年から東大ア式で監督をしている。

監督に憧れてから9年も経っていた。

 

 

監督業1年目

何としても今年から監督をしたかったわけでもない。

だがアナリストやコーチを続けるにしても、1度は監督をするべきだと多くの方からの助言からや、そもそも監督になるチャンスが多くくるわけでもない。

 

監督1年目は苦労の連続だった。

 

特に労力をかけたのはマネジメント面。

監督として目指すべき方向を示し、理解させ、チームを同じ方向へ進めること。

大学に入学してからメンバー移動のないサッカー部はプロクラブ以上に部特有のチームの雰囲気や輪が固く出来上がっている為、外部から来た人間が馴染めなく浮くことも多い。

私が来た時にはすでにチームの軸となるメンバーやキャプテン、来シーズンの目標やチーム内での空気感ができあがっており、そこから新たな方向を提示し進めることは簡単ではなかった。

また昨シーズンまでの数年間で部が続けていたものとは全く違う要求と評価基準を私は示した。

 

言わば和式から洋式への移行。

 

果たしていくつの日本のサッカークラブがこの移行に挑戦し見限ってきたのだろう。

 

東大という組織の性質上、私の価値観を論理的に説明し、十分に理解し納得してもらう必要があった。

その為のミーティングの準備や練習メニューの作成には毎日相当な時間を費やした。

 

ミーティングでのスピーチは容易ではない。

それは共に仕事をしていたFernando Jubero が抜群に上手かった。

今まで彼の横でそれを見て学んだことや、他にもありとあらゆる監督のミーティング映像を見漁って参考にした。

スペイン人監督は話すのが上手い人が多い。惹きつけられモチベーションが上がる。エンターテイナー。

 

練習では、基本的なボールの蹴り方、持ち方、ボールタッチ、ミクロな動作改善から行う必要があった。

より効果的に課題にアプローチするために毎日オリジナルのTRメニューを作って変化をつけた。

戦術面の理解力を増すための講義は私やコーチ陣で毎週欠かさず行い、フットボールの落とし込みには想像以上に時間がかかった。

 

リーグ戦を戦っていく中でチームとしての完成度は高まりつつも、7連敗した。

 

勝利すれば全てが肯定され、多くの人から褒められ評価される。

勝たなければ意味がない。

私は負けたらクビを切られる世界にいた。パラグアイでは結果が出なくなり皆んなでクラブを去ることになった。

一ファンとしても私が大好きなセビージャが勝てば嬉しいし負けたら悲しい。

 

ただ、勝ちたい気持ちだけで勝てるほど単純なものでもなく、その1つの結果の裏には無数の要因が複雑に絡み合っていることも少しは理解している。

 

悔しさや嬉しさを表には出さなくても、誰よりもチームの勝敗に敏感で、誰よりも勝利を欲しているのが監督なのは間違いない。

 

監督1年目のシーズンの成績はよくない。

ギリギリ降格を免れた10/12の順位でシーズンを終えた。

ただ、順位のみを見ただけでは知り得ない成果もたくさんあった。

 

東大ア式は所属リーグの中では上手くもなく、強くもなく、速くもなく、高さもない。

そんな中、勝利の可能性を高めるには相手よりも試合を支配するしかなかった。

 

最初はポジションすらとれずにパスが数本たりとも繋がらない。

パスを繋ぐという選択肢すら持っていなかった攻撃と、

ボールめがけて根性でひたすら突っ込んでいく守備をしていた選手たちが、徐々に適応し変化していった。

 

シーズン終盤には見違えるプレーを見せてくれて、目指していたゲームモデルを選手たちが実現してくれた。

何人もの選手が1年間で全く別のプレイヤーになっていた。

 

-20/22試合でポゼッションを上回った
-勝利した試合はポゼッション率がより高かった
-ペナルティエリア内への総侵入数が被を大きく上回った
-失点よりもより深い位置からの得点が大半
-得失点差のみをみると中位
-得点数が昨シーズンより増加(26→32ゴール)

 

ゾーンディフェンスも形になった。

最終節には、1試合を通して守備で3つのシステムを使い分けながら、無失点で勝利した。

私の憧れていたウナイ・エメリに少し近づけた気がした。

 

試合後には、選手から今までのサッカー人生で今年が1番楽しかったと言ってもらえた。勝てないことが多かったのに。

とても嬉しかった。

 

そして、多くの人が勝敗でしか善悪を判断しない中、

チームが勝っていなかった時期でも、私たちのフットボールが良いものだと評価してくれる人達にも多く出会った。

 

「東大ア式がリーグで1番良いサッカーをしている。」

と、サッカー関係者の方や相手チームの監督から褒めていただけた。

 

私のファンも生まれていた。

どのように戦術を落とし込んで、チームを作ってきたのかが気になったそうだ。

とても嬉しく、有り難かった。

 

理想となるフットボールを追求しつつ、その上で結果を出す。

言葉で言うほど簡単ではないが、その作業にサッカー監督としてのロマンがある。

 

 

アシスタントコーチ、第二監督、通訳、アナリスト、ヘッドコーチ。

スペイン、日本、パラグアイでの、子供からプロチームで戦ってきた経験は無駄ではなかった。

 

もし指導者を始めて1.2年目ですぐに監督を始めていたら、何の成果も得られなかったと思う。

けれど優秀な人がいる環境は周りの人を成長させてくれる。

若林大智、Fernando Jubero、Daniel Rubiol、山口遼。

今まで共に仕事をしてきた優秀な監督、仲間達から多くを学んでこられたお陰で、監督業1年目を乗り越えられて価値のある1年目にできたのだと思う。

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です